パーソナルコンピューティングの父、アラン・ケイとは?

出典 : http://www.adeptis.ru
アラン・ケイという名前を聞いたことがあるでしょうか? コンピューターに詳しい方はご存知だと思いますが、実はかのスティーブ・ジョブズのmacintoshの開発のきっかけになったといわれている人です。アラン・ケイについてご紹介しましょう。

パーソナル・コンピューターの父

アラン・ケイは、1967年から1977年にかけてエド・チードルとともに、デスクトップマシンを開発した、「パソコンの父」と呼ばれる人。パソコンの理想型、Dynabookの開発者でもあり、MacやWindowsが誕生する前にパソコン業界に多大な影響を与えた人です。
1960年代のコンピューターは、高価で大きく、複数人で共有するのが当たり前でした。そのコンピューターに、個人向け=”パーソナル”の概念を付け加えたのがこの人です。当時はコンピューターの性能が将来あがっていくことを予想する専門家はいても、持ち運べるサイズになると言うひとはほとんどいませんでした。
しかし、アラン・ケイは、パーソナル・ダイナミック・メディアという論文の中で、

”形も大きさもノートと同じポータブルな入れ物に収まる、独立式の情報操作機械があるとしよう、この機械は資格、聴覚にまさる機能をもち、何千ページもの参考資料、詩、手紙、レシピ、記録、絵、アニメーション、楽譜、音の波形、動的なシミュレーションをはじめ、記憶させ、変更したいものすべてを収め、あとで取り出せる能力があるものと仮定する

というように、パソコンの存在を予言しているのです。当時の人々からすれば夢物語だったはずです。 

教育者としてのアラン・ケイ

実は、彼には情報科学者とは別に、教育者としての顔があることをご存知でしょうか? 実は彼の中で、コンピューターと教育は切っても切り離せない関係にあるのです。

”「教えること」--わたしは教師の壷から生徒の壷へと、数リットルぶんの知識が注ぎ込まれる、といった流体理論のようなものを思い浮かべます--と、「学習の概念」--学習者の内部で起こるなんらかのプロセスを暗示します--とのあいだには、とてつもなく大きな違いが横たわっている、ということを申し上げておきます。 
※「教育技術における学習と教育の対立」より 

また彼の一番有名な言葉があります。 

”未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ
”未来は、あらかじめ引かれた線路の延長線上にあるのではない。それは我々自身が決定できるようなものであり、われわれが望むような方向につくり上げることができるのである

前者は教育に関して、後者は自分の研究に関しての発言ですが、とても似ているように感じます。”大人が線路を敷いてその上を子供に歩かせること”や、”人間の未来が決められていてその運命に沿って進むしかないこと”、そういう考え方への強い反対を感じます。 
彼の考える理想の教育とは、子供に自発的に学び、教育者はそのきっかけを作るだけ、というもののようです。まさに、子供の方が自分たちより多くを知っているということですね。 

”もし、ある学年の子どもを一年間教えるとしたら、おそらく毎週10個の違うプロジェクトを用意して、子どもたちに好きなプロジェクトを選ばせるべきでしょう。各プロジェクトはその週の共通アイデアがある。子どもたちはそのアイデアについて話し合うこともできます。さまざまなプロジェクトがたくさんあって、子どもは自分が一番やりたいものを見つけられるのです。 
佐々木かをり氏によるインタビューより

コンピューターの教育への活用

One Laptop per ChildというNPO団体があります。文字通り、子供たちに一人一台コンピューターをという考えで活動している団体です。そのためにできるだけ安い価格でPCを提供し、どの国の子供にも行き渡るように、100ドルPCをつくろうと、彼は開発に尽力してきました。 
現実には、100ドルという価格設定は厳しく、実現はできていないようですが、最近、ターゲットをタブレットに変更し、150ドルタブレットが販売されているようです。
最後に、彼のコンピューターの教育への活用に関する考え方を見てみましょう。 

”子どもというのは、喜びと驚きの感覚をあまり失っていないので、われわれがコンピュータに関する倫理を発見する助けになってくれた。自分の仕事そのものを自動化してはいけない。素材だけにとどめるべきだ。絵を描くなら、描く作業を自動化するのではなく、新しい画材をつくるためにコンピュータをプログラムすべきだ。音楽を演奏するなら、自動ピアノをつくるのではなく、新しい楽器をプログラムすべきだ。
※「マイクロエレクトロニクスとパーソナルコンピューター」より
”コンピュータは道具ではありません。 …中略… コンピュータそのものは、紙のようなメディア--とてつもなく自由自在で、コンピュータの発明者が理解することもできなければ、そうする必要もないほどさまざまなかたちで利用され、人々の世界観を根本的に変えるものなのです。
※「教育技術における学習と教育の対立」より

コンピューターは教育のただのツールとしてではなく、メディアとして、人々、特に子供たちの世界観になにかしらの影響を及ぼすものとして、使うべきものだというのですね。
ちなみに、彼は最初にパソコンの予言をしていた論文の中ですでに、パソコンと教師を比較しています。この当時から既に彼はコンピューター教育の可能性に期待していたのです。

”メディアとしてのコンピュータは、他のいかなるメディアにもなりうる。しかも、この新たな”メタメディア”は能動的なので(問い合わせや実験に応答する)、メッセージは学習者を双方向な会話に引き込む。過去においては、これは教師というメディア以外では不可能なことだった。これが意味するところは大きく、人を駆り立てずにはおかない。
※「パーソナル・ダイナミック・メディア」より

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